竹中先輩は委員会の先輩だ。

縦割のクラスが一緒のせいか、委員会の当番が一緒になる確率がとても高い。 けれど竹中先輩は部活もあるせいかなかなか委員会の当番をこなすことができなくて、結局私が一人で当番をしたりしている。 それを竹中先輩は気にしてくれて、私の教室まできてくれたり、廊下ですれ違う時にわざわざ詫びてくれる。 あまり、そう、あまりいい噂は聞いていなかったので、意外にも律儀な人なんだなぁという感想を持った。

けれど仕事は別に律儀でも真面目でもないし、たまーに一緒に当番をすると私は少し呆れてしまう。 やる気がないんだなぁ、と分かってしまうような態度すぎて、時々面白くなったりもする。 それぐらい竹中先輩はやる気がない。 ぼんやりと眺めている雑誌とか、日本語ではない本とか。 そういうものを見つめる先輩の目はとても大人びていて、私はその横顔を見つめるのがとても好きだ。 じっと見つめるなんてそんな度胸は持ち合わせていないから、ちらちら盗み見るぐらいだけれど。 それでも十分で、私を沢山ドキドキさせる。

たまに話をしてくれることがある。 先輩が本を読んでいるから、邪魔したら悪いなぁという思いが強くて私から話しかけるなんてことは用がある時だけだったから、自然と先輩が話しかけてくれるのを待つようになった。 穏やかな声でこれはフランス語の本なんだけれどね、と私には読めないそれを見せてくれて内容を教えてくれたり、たまに小さな声で何か、たぶんフランス語を喋っている時がある。 素敵ですね、と一度言ったらちょっとだけ目を見開いてから、ふんわりと微笑まれて私はドキドキしすぎて熱があがっちゃうんじゃないかと思った。

先輩の雰囲気と呪文のようなフランス語は私をくらくらさせる。 少しだけ意地悪そうに細くなる目も、優しげな口元も、落ち着いた仕草も、柔らかそうな髪にも、本をめくってなぞる指先も、先輩の全部にドキドキするようになっていった。


時々一緒になる当番が楽しみになって、すまなかったね、とわざわざ教室に足を運んでくれることが嬉しくなって、少し経った頃には私のドキドキは立派な恋心に成長していた。 そんな時だ。先輩が珍しく、本当にびっくりするぐらい珍しく、放課後の当番にきてくれた。 私はあんまりびっくりして、どうしたんですか! と叫んでしまって、静かにね、と困ったように笑われてしまって、恥ずかしくてすぐに小さくなって椅子に座った。

「部活」
「へ、」
「今日はお休みなんだ。確か放課後も当番ってあったな、って思ってね」
「確かって、先輩、」
「おっと。呆れられてしまったかな」

先輩は楽しそうに笑って、それからすぐにいつもの本を取り出した。 私は何をするわけでもなく、ぼんやりと、たまにちらちら盗み見をしたり、あとは課題を片付けたりする。 いつもは一人ぼっちだから課題がよく進むのに、先輩が隣にいるというだけで全く集中できない。 だって初めてだ。放課後の当番を一緒にするのは。放課後に先輩が隣にいるのは。 ドキドキ、しないはずがない。 緊張しないはずがない。

さん?」

シャープペンを握る手が小さく震えている気がして、ぎゅうっと力をいれて握ると先輩が私を呼んだ。 はっとして顔をあげると先輩は目を少しだけ細めて、それから初めて私の頭に手を置いた。 初めて自分から私に触れた。

「何だか、緊張してるみたいだね」

そういう先輩の目から、私は目が離せなくなってしまう。頭に乗ったままの手から、私の心臓の音とか早さが伝わってしまうんじゃないかと心配になる。心配したら、もっと早くなった。 はあ、とゆっくり細く息を吐き出すと先輩は私の頭から手を放して、指先に触れた。

「いえ、そういう、わけじゃ」
「指先が冷たいし、少し震えているね。緊張、してる」

そういう先輩の指先は私よりほんの少し温かくて、それで私が盗み見て想像していたよりもずっと男の人の手の感触だった。 きっと竹中先輩の手も、指先も、あんなに綺麗なんだから女性のそれに近いんじゃないかと思っていたのだ。 だけど、違った。 私の想像と違って、違うと言うことが分かって、私はまたドキドキした。

「大丈夫、取って食べたりはしないよ」
「と! 食べ!」
「しないよ。大丈夫、そんなに焦らなくとも」

先輩は私の指先を摘むようにして持ったままで、喉の奥の方で楽しそうに笑った。 私は "取って食べる" という言葉が恥ずかしいやら動揺するやら、そんなつもりはないと言われてちょっぴり悲しいようなで、どんな顔をしていいのか分からなくてちょっとだけ俯いて頷いた。

先輩はちょっと、だらしない人だと噂で聞いた。 竹中先輩と委員会の当番が一緒だと言ったら、友人はこっそりと私に言ったのだ。 竹中先輩、そんな風に見えないけど女の人にだらしないらしいから気をつけなさいよ、と。 気をつけるって何! とその時私は笑っていたけれど、もしかしたら彼女には分かっていたのかもしれない。 私がその時すでに竹中先輩を好きになりそうだと思っていたのかもしれない。 教室に詫びにくる先輩を、友人が変な顔をして見ていたこともあったし、あんなに愛想ふりまかなくて良いのよ、と言われたこともある。 でも先輩は先輩だし、委員会一緒だし、当番も……と私が言えば彼女はとにかく気をつけてよね、と言った。 だけど私は先輩を見ていて思ったのだ。 先輩は大人びているから、私が隣にいてもつり合いはしない。 それにたぶん先輩も自分と同じぐらい大人びている人が好きなんじゃないかと、これは私の勝手な予想だけどそう思っている。 だから私が気をつけないといけないことなんて何一つないのだ。 現に、たったいま取って食べたりはしない、と言われてしまった。 これって、そんなつもりはないよ、そんな風に見てるわけじゃないよと言われたのと同じじゃないかと思うのだ。

さん」

先輩が私を呼んだ。それと一緒に摘まれたままの指先に少しだけ力が入った。 はい、と顔をあげると先輩は少し考えるように目を逸らして、それから寂しそうな表情をした。

さんを困らせてしまうなら、当番、くるべきじゃなかったかな」
「え、そ、んな! そんなことないです!」
「だけど課題も進まないみたいだし、緊張させてしまってる。申し訳ないな」
「そんなことないです! 本当に、あの、先輩が今日来てくれて私とても」

とても、の後にいったい私は何を言おうとしたのだろう。 とても、まで言ってとんでもないことを口走りそうになったことに気づいて、私は先輩が指先を摘んでいることも忘れて両手で口を覆った。 指先は確かに冷たくて、だけどそれ以上にたぶん私の顔が熱くなっているんだとすぐ分かった。 先輩は驚いた顔のまま私を見ていて、それから離れてしまった、さっきまで私の指先を摘んでいた手を見て微笑んだ。

「触っても嫌がらないし、そんなこと言われたら期待してしまうよ」
「え、」
「とても、のあとを僕の都合の良いように想像してしまうけど、いいのかな」

そう言って先輩は少しだけ椅子を転がして、私に近づいた。 ひざとひざがぶつかるか、ぶつからないか。たぶんどっちかが少し動いたらぶつかる、そんな距離だ。 私は先輩の目を見つめたまま、逸らしたらいいのか、俯いたらいいのか、このままでいていいのか分からなくなって、結果逃げるように俯いた。 なんだか、堪えられなかった。 ただ一緒に委員会の当番をしていて、それで時々お話をして、私はドキドキして、それだけで良かったし、十分だった。 付き合いたいなんて考えたことはなかったのだ。本当に、一度も、そんな想像ができなかったから考えたこともなかった。 それなのに今私と竹中先輩の雰囲気は、何だか、付き合っている人たちのそれによく似ている気がして。とても先輩を見つめていられなかった。

「せ、んぱいは」
「何だい」
「ちょっと、その、女の人にだらしない人だと、気をつけろと言われました!」

変な空気も、この触れそうになっているひざから伝わってくるような気がする先輩の温度とか、そういうの全部どうにかしたくて。 もしも友人が心配しているようにだらしないお遊び、の相手にされそうになっているのなら、そのためにこういうことをされているとしたら、私は知ってますよ、無駄ですよと、そう伝えたくて言ってみた。 ちらりと先輩を見れば、やっぱり驚いた顔をしていて。 それからくっ、と喉を鳴らしたかと思うと声をだして笑いだした。 どうしてそんなに先輩が笑うのかが分からなくて、竹中先輩、と控えめに呼んで見れば先輩は飲み込むように笑うのを辞めて、それからまた少し椅子を転がした。 膝が、触れた。

「もう、だらしないのは卒業したよ」
「え、そ、なんですか」

何だかとても失礼なことを言ってしまったかもしれない。 そう思ってごめんなさい、と呟けば先輩はいいんだよ、と穏やかな声で言ってくれた。 だけど私はどうしたらいいのかわからなくて、俯いて先輩の声と影を追って、くっついた膝を見つめていた。

「まあ最近だからね、卒業したのは。だから謝る必要はないよ。知らなくても仕方がないと思う」
「そうなんですか」
「そうなんだよ。今は一人の女の子をどうやって落とそうかなって、必死に考えてるとこなんだ」

先輩の影が、近づいたのが分かった。くっついている膝から、私の方に少し力が加わったのも分かった。 何だか私の呼吸がとても煩いもののように思えて、なるべく浅く静かにしようと思えば思うほどそれは煩く聞こえた。 顔をあげる勇気はない。先輩に今のどういう意味ですか、私の都合の良いように捉えちゃっていいんですか、と先輩のように聞くことだってできない。 口も指先も、目以外を上手に動かせそうにない。

「だらしなくない僕なら、期待しても、いいのかな」
「……た、ぶん」
「じゃあ期待させてもらうね」
「先輩、あの」

一瞬、目を閉じて、それで開いたら先輩の顔はすぐ傍にあった。 驚いて身を引こうとしたら、下から掬う様にキスをされた。 先輩の顔が近くにあってドキドキしたのも、驚いたのも、どうしようかなと考えていたこと全部から私を救いあげるようなキスで、唇が触れ合っている間は不思議と安心した。 しばらくしてから先輩の顔は離れていって、呆然と先輩を見つめる私の指先をまた摘んだ。

「緊張したんだけど、僕の指、冷たいの分かる?」
「あ、わかん、ないです。私の指も、同じぐらい」
「うん、だから、緊張してるんだよ」

先輩は笑った。私はもう本当に何が起こったのかを理解できずにいて、どうすればいいのかも考えられなくて、摘まれていない方の手の指先で唇をなぞってみた。 先輩の感触が残っている気がして、なぞって、恥ずかしくなって。 その先輩が目の前にいることに気づいて、もっと恥ずかしくなった。

「ごめんね、取って食べてしまった。食べないって言ったのに、嘘つきだね」

とても申し訳なさそうな声でいう先輩に、顔をあげた。 先輩は声と同じような表情をしていて、たぶんお互いの指先を見つめている。 先輩の指はまだ私と同じ温度のままだ。

「そんな、」
「だけど、だらしないの卒業したっていうのは本当だし、どうやって落とそうって必死に考えたら余裕がなくなってしまったっていうのも、本当だよ」

信じてくれる、とそう言って顔をあげた先輩の指先はついに私よりも冷たくなった。 たぶん私の顔が熱くて、それで指も熱くなったんじゃなくって、先輩の指先が冷たくなったのだ。 たぶん、緊張で。

「し、んじます」

強く頷いて、先輩の指先にもう片方の手を重ねた。 先輩はとても、とても嬉しそうに微笑んで、もう片方の手を私の手の上に乗せた。 ちょっとずつ温かくなっていく先輩の手に、本当に緊張してくれていたんだと思うと嬉しくて、私の頬は緩んだ。課題がちっとも進まなかったけれど、こんな展開望んでたわけじゃないけど、それでもやっぱり。今、この状況に頬が緩まない程、先輩への想いが弱いわけではないのだ。




***** さあ、次は旦那のターンです。