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※大正パラレルです。 (偶然は) 黒猫がよぎると不幸になるといいます。 私はそれを信じていませんでした。幼い頃から路地裏で黒猫を見つけては、その黒い毛並みに金色の目が光っているところを綺麗だと思っていたのです。機敏などうぶつが目の前に姿を現してくれたなら、それがたとえ一瞬のことであってもどんなにか嬉しいでしょう。私は猫が好きでした。生まれた頃から共にいた兄そしてご友人の竹中さまの次くらいに、黒猫が好きでした。 よく晴れた三月の末でした。私は独語を訳すための本を選びに街を歩いておりました。学友は皆あんみつ屋などに行ってしまい、ひときわ独語が苦手な私だけが女学校帰りに古書店に寄ることになりました。古書を見ていると具合が悪くなるので好きではありません。本が沢山の埃を吸い込んでいるせいで息がしにくくなるのだといつか竹中さまがおっしゃっていました。 『僕は古書が好きだけれどね』 白い睫毛が頬にうすい影を作って竹中さまは笑うのでした。 頭上の空は晴れていて、冬から春に流れていくように雲はたなびき穏やかに流れていました。古書店へ入る裏路地はうす暗く、建物の陰に切り取られた青空がひときわ鮮やかに見えました。石畳の上では空がまぶしくて私はまばたきをしました。次に目をひらいた時、靴をはいた私の足元を何かが横切っていきました。 黒猫です。 その姿をよく見たくて路地に目を凝らしました。すると動物の影はもはやなく、見えたのは黒い、よく整えられた一そろいの靴。人でした。足先から視線を辿っていくと、そのひとは一歩も動かずにそこに立っていました。硬そうな銀色の髪。吊った金色の目。黒い学生服。まるで猫のようです。 「……」 目が合ってしまいましたので何かを言わなければ、思い、頭を探っても何も出てきませんでした。私が黙っているうちにそのひとは身を翻して路地の奥へと進んでいきいました。迷いのないまっすぐな足取りでした。 横を向けば真鍮の鈴がついた古書店のドアー。 だから私は、そのひとを追いかけようとは思わなかったのです。 (必然で) 兄から新しい書生さんを紹介されたのはその夜のことです。 黒猫のようなその人の名は石田三成といい、学業を進めるために此方へ出てきたということです。豊臣の家に間借りさせてもらうのが申し訳ないから書生の仕事をするのだとおっしゃいました。とても礼儀正しい方です。 兄の横に並んだ三成さんは細長い柳にも似ていました。しかし私を見つめるその目はすこしもしならずに、その日は最後までにこりとも笑わなかったのです。 一週間が経ちました。 花冷えの季節を過ぎ桜は満開に咲いています。週末なので時間の空いた竹中さまがお花見をするのだと我が家にやってまいりました。兄はちょうどそのとき道場で鍛錬を積んでおりました。兄が着替えて階下におりてくるまでの間、お暇らしい竹中さまは私のお相手をしてくれました。 「君も桜を見に行くかい」 「ありがとうございます。ですが私は本を読まなければいけないので」 「独逸か。君はもう少し知恵をつけたほうがいいからね」 学校のない日の竹中さまは白いシャツがとても清潔で清廉な印象をより高めていました。私の掲げた独語の本を見て、わずかに吊った目元を柔らかく緩めるのです。 「はい。あの、今よりも賢くなったら、私ともお話をしてくださいますか」 「条件をつけなくても君とはいつも話をしているじゃないか」 竹中さまはすこし笑いました。春の空気をくちびるに含んだその笑みは簡単に私の口元を固くします。そういうことではなくて、他愛のない世間話ではなく、もっと難しい、ことばや文学やお国のことを。兄とお話している時の竹中さまはいつもとても楽しそうなので私はうらやましいのです。 思ってもうまく言えずにいると汲み取って答えてくださいました。 「そうだね、その本を読めるようになったら。独逸語の詩を教えてあげるよ」 折り曲げた人差し指を口元に当てて笑う竹中さまはお綺麗で、その笑顔が私に向けられているだけで心のうちが温まって手に力が入ります。 「……! 嬉しいです、独逸の作家はゲーテくらいしか知らないのですが、それも日本の言葉でしか読めないので、あの、頑張ります」 「楽しみにしているよ」 返答はその場しのぎの相槌ではなく、この方はいちど約束をしたら守ってくださると私は幼少の頃より知っています。気が引けていた独語の古書も喜ばしいものに思えてきます。両手で本を持ったままでいると、竹中さまの細く綺麗な手が私の頬を掠めました。肌に触れたかすかな感触。驚いていると笑みを崩さぬままに一言「埃」と。 「!」 慣れた家の中で埃を頬につけたまま話している女。一瞬で顔があつくなるのが分かりました。謝ればいいのかお礼を言えばいいのか選べません。血のつながった家族以外で一番長くお付き合いしているとはいえ、よりにもよって竹中さまに。 「どうした、」 私の羞恥は着替えを終えた兄の目にも明らかだったようです。「何でもないよ秀吉」答えたのは竹中さまでした。「三成もね」 気づけばそこに三成さんがいました。階段の脇、私たちからすこし離れた場所に立っています。いつの間にいらしたのか分からない私は軽く会釈をしましたが、三成さんは兄を見送る方を大事と考えているようでした。 「。勉学を怠るな」 兄は大真面目に私の肩を叩くのでした。武術で良い記録を出し続けている兄ですが優秀な思考の価値もきちんと知っているのです。きっと幼少の頃より竹中さまがおそばにいてくださったから。 「心得ました。秀吉兄様も楽しんでいらしてくださいね」 「無論」 乱れなく袴を着込んだ兄は口の端をすこし緩めるだけのかたい笑みを浮かべました。その隣で半兵衛様がひらひらと手を振りながらこうおっしゃいます。 「三成も、少ししたら君を気晴らしに連れて行ってあげると良い」 あまりに意外な提案だったので私は恐縮しました。三成さんは毎夜遅くまで勉学に励み、朝は女中よりも早く起き出しているとのこと。そのような方の休日を私のために過ごさせるわけにはいきません。 と思う私と裏腹に、兄までが良い考えだと同意するのでした。 「三成もあまり無理をするな。気晴らしも良いものだぞ」 「……かしこまりました」 悠然と構える兄と対照的に三成さんは丁寧に頭を下げます。家に来てからこのやり取りを見るのは何度目か。三成さんは兄に何か言われるたび、低い声で肯定を返すのです。 しかし、気晴らしをかしこまるとはどういうことでしょう。この方もきっととても真面目なのです。 門を出るとき竹中さまは「君。似合っているよ、その白いワンピース」と手を振ってくださいました。私は思わず手を振り返してしまい、その仕草がはしたなかったかとまた頬が熱くなりました。 三成さんは何も言いませんでした。 三時を過ぎて自室の扉をノックする人がありました。三成さんです。本当に私を気晴らしに連れて行ってくれようというのです。今まで形式的な挨拶しか交わしてきませんでしたから、大事な時間を私のために使ってくださることが少し申し訳なくもありました。 けれど三成さんにとってはきっと、私のためというよりも敬愛する兄のため、彼がそう口にしたから実行に移しているだけなのでしょう。 (突然) 春の野は青空の下で柔らかく、白く背の低い白詰草が丸い花をたくさんつけていました。足を一歩動かすと草の匂いがして三つ葉が風に揺れました。 「すごい、花がこんなにたくさん」 感嘆の声をもらす私に三成さんは表情を変えず、「花を見るのは初めてですか」と返事をなさいました。嫌味なのか冗談なのか分かりかねますがこうした物言いには慣れているのです。竹中さまもそれなりに意地の悪いお方ですから。 「白詰草は春がくるたびよく見ます。でもこの場所は知りませんでした」 三成さんはどうして見つけたんですか? 尋ねると「偶然です」と簡素な一言。きっとお散歩か寄り道をした時に見つけたのでしょう。 ひざをつくと野原の土はしっとりとして、ワンピースの裾が三つ葉の上に広がりました。 一定の距離をおいて黒い詰襟の学生服がひとり。三成さんはたとえ休日であろうとも礼服を崩さないようです。もうすこし家に慣れてくれれば違う服を着ているところを見られるでしょうか。 花の香りを運ぶ風が吹くたびに青さが鼻をかすめ、緩やかな日差しに照らされて雲の影が流れていきました。 「三成さんは冠をつくれますか」 「いえ」 「一緒にやりませんか」 せっかくなので遊びましょう。 野原でできる遊びといえば花遊びしか思いつかなかったので提案してみました。何もせずに時間が流れていくのは気心の知れた相手なら心地良いものですが、生憎と私はこの人のことをほとんど何も知らないのです。 特にどうとも答えませんでしたが三成さんは私の近くにひざをつきました。いくつか花を摘んで最初の編み合わせを示すと、節の目立つ長い指が白詰草を根元から引き抜くのでした。 顔よりも日に焼けて健康的な色をした手は不器用で、丸く切られた爪の先が花の茎を何度も潰しておりました。私もはじめの方は、ほどいてみたり手本を見せたりと正しい冠が出来上がるために頑張ってみましたがなかなかうまくいきません。三成さんの眉間には次第に皺が寄り、指先に力が入り始めました。苛立っているようです。 (意外と短気なのね) 首をかしげると、三成さんは苦い感じの表情で持っていた白詰草の茎を蝶結びにしました。花の部分が中央にきてちょっとしたリボンに見えます。それを後方に放り出そうとしたので私は声をかけました。 「それ、いらないなら私にください」 「……これをですか」 頷きます。理解しかねる、という目で三成さんはいびつな花のリボンを私にくださいました。上向けられた私のてのひらに落とされた草は春の匂いがして、指を下向きに開かれた三成さんの手は当然ながら私のものよりずっと大きかったのです。 「……三成さんは、兄のことがお好きですか」 「尊敬しております」 間髪入れずに齎された返答に笑ってしまいました。その反応に少々むっとしたらしい三成さんに、私は悪意のないことを示さねばなりませんでした。 「ありがとうございます。私も兄が好きです」 ひざの上に乗せられたのは作りかけの花冠。ですが私は手に持っているリボンの方が素敵に見えてならないのです。 「連れてきてくださって嬉しいです。私、三成さんとお話をしてみたかった」 「……何故です」 何故。それを聞くのですか。 私はてっきり、貴方は知っているものと思っていました。 「はじめて会った時、何も言わずにいなくなってしまったから」 「失礼を」 「ううん、いいです。でもあの時からずっと気になっていました」 正直なところを話すと虚を突かれたように片眉を上げる三成さんです。 「なんだか黒猫みたいだから」 意味が分からないと聞き返されるでしょうか。それとも、人を動物に例えるなと怒られるでしょうか。そんな反応の幾つかも知らない私は期待しながら返答を待っていたのですが、予想に反して届けられた言葉はこんなものでした。 「私は貴女を白い人だと思いました」 「しろいひと?」 三成さんは考え込んだ末にくちびるの形を少しも変えずにそう言うのです。 白い人とはどういう意味でしょうか。素直に尋ねると三成さんはほどなくして答えてくれました。 「明るい場所から現れたので」 背に光を負って見えた、と。 確かに大通りは裏路地と比べて日当たりが良いので進み出る人の姿が白く見えるかもしれません。それにしても白い人、とは。三成さんは詩の精神を解する人なのでしょうか。再び首を傾げても三成さんは何も言いません。 「どうしてあの時何も言わずに行ってしまったのでしょうか」 「話すことがありませんでした」 「私が、豊臣家の者とはご存知でしたか?」 「いえ」 「私も知りませんでした」 だから貴方とまた会えて嬉しかった。 そう思ったことは言いませんでした。何となく、言わなくても分かってくれるような気がしたのです。私の甘えでないといいのですが。 「竹中さまが気晴らしを勧めてくださってよかったです」 「……そうですか」 「ええ。竹中さまは私のしてほしいことを分かってくださって、本当の兄様みたいです」 「!」 どうしましたか。 三成さんは私の言葉を聞いた途端に驚いた風を見せて、何かおかしいことでもと尋ねると私から目を逸らしました。 目元がわずかに赤く見えるのは気のせいでしょうか。 「三成さんの好きなご本はなんですか」 次はそれを読みたいと思います。 白詰草のリボンを持ったまま微笑むと、しばらく考えて三成さんは独逸らしい名前を出しました。私の勉強することがまた一つ増えたようです。本のこと。言葉のこと。この人の好きなもののこと。 「わからないところは聞いてもいいですか」 今はまだ自信がなかったのでそう言うと、三成さんはややあって「辞書の引き方を教えてあげます」と。 ああ、やはり。 黒猫が不幸を運んでくるという話は、嘘のようです。 |